推しがいる者が読む、宇佐見りん「推し、燃ゆ」の感想文

【あらすじ:推しを推すことが生活の中心である女子高生あかり。ある日推しの真幸くんがファンを殴って炎上する。推しを「解釈」することに人生を注ぐあかりにとって、推しがいない人生は「余生」なのかーーー】

 

「推しを推すことは背骨」

「推しは命にかかわる」

「推しを解釈してブログに残す」

 

胸に来るというか、耳が痛いというか、覚えのある言葉が次々とあかりの独白で投げられてくる。分かる、つらい、と思う私はここ数年ジャニーズの某グループを熱心に推してる中年女性である。

 

「推し」は便利な言葉だ。「担当」ほど生真面目でもなく使い勝手が良い。

「担当」はジャニーズの非公式だと思うが、高い地位のオタク(※事務所に近いという意味で)であれば担当を退くというのは大変なことらしい。ファミリーを標榜してきた事務所らしいというか、ファミリーなのに、というか、謎の仁義を感じる。

しかし、ファンという立場においては「推し」も「担当」も違いはない。

 

推しの事を毎日考え、幸せを祈り、日々を過ごす。

 

それが手の届かない人を好きになってしまった者ができることの全て。

そこに加えてあかりは推しを「解釈」することに精力を注ぐ。あかりが「真幸くんガチ勢」として有名になったのは、彼のアカウントを使って別のメンバーが彼のふりをして呟いた時に、<なんかいつもと違いますか?真幸くんぽくない....>と言い当てたのがきっかけ。

そんなガチなあかりの書くブログには同じく真幸くん推しのファンがコメントを残す。現実のあかりと違ってSNSでのあかりは優しくて賢いお姉さんキャラだ。推しが語る言葉、表情の変化、あかりは見逃さない。そして自分の「解釈」を積み重ねブログに綴る。

 

私はいつからか、推しの内面についてはあまりブログに書かないようになっていた。それは解釈しても分からない、からで、ほんとうのところが分からないことを書いて読んだ人と「解釈違い」を起こしたくないから、というのもある。なので、あかりの「解釈」には不安が募る。メンバーの擬態を見破った件も、手の平をかえせばSNSでさらされて叩かれそうだなと思った。

 

ファンも炎上するが、推しはもっとたやすく炎上する。

生身の人間は推すのに向いてない。この数年の推し活動で私はそう悟った。生身の人間は炎上するし、物事は移り変わる。いくら気を付けていても火種なんてなんでもいいから炎上する。「炎上しませんように」と祈りながら朝を迎えるのはどう考えても体に良くない。それでも推しを守りたくて、真幸くんが炎上した朝のあかりのように<病めるときも健やかなるときも推しを推す>とスマホに書き込む。

 

一体この感情はなんなんだろう。

やはりこれは「宗教」か。

他者に対する宗教は、生身の恋愛の影が薄くなった時代の代償行為なのだろうか。

20代前半の若かりし頃、友達とお互いの恋愛について〇〇教(〇〇には彼氏の名前が入る)だよね~と幸せな気持ちで笑いあったことを思い出す。あの時からメンタル変わってない。

違うのは、実際の恋人は「君がもっと~だったら、僕は君をもっと推せるのに」と打算を持ちかけてきたこと。そして私も打算で答えていたこと。でもアイドルはそんな条件一切無しで「つらくなったらいつでもここに来ていいんだよ」と両手を広げてくれる。思わずダッシュしてアイドルの胸に飛び込もうかと思った。

 

でも、同時に、なんでそんな、、、自分の方が大変なのに、、、あなたたちはどこで癒されてるの、、、、と思う。でも、彼らがなにで癒されているか、私には知るよしもない。それを知りたいわけでもない。「幸せであれ、健康であれ」と祈るのみ。そして「できるだけ長く、この幸せが続きますように」と願いをかける。願いをかけるというか、終焉を引き伸ばそうとする。

 

推しは人間だから、アイドルを辞めたりする。推しがアイドルを辞めた時、グループが解散や休止になった時、私はどう思うんだろうか、と時々想像する。「推したわーー推した!」とやり切った感になるのか、喪失感に苦しむのか。推しを通して繋がった人々と、それ以降も「あの時楽しかったねー」と交流するのか。推しによって繋がった命は、推しによって断たれるのか。

 

あかりは全てを推しにつぎ込む。お金も時間も気持ちも。推すこと以外は重要ではなく、炎上した推しの不安定さに影響されてあかり自身の生活も不安定になっていく。あかりの母親のような年齢の私はあかりの行動のまずさも分かるし、のめりこんでしまう気持ちも分かる。例えば半年だけめいっぱい推してみたら?それで気がすむかもしれないし。と提案したくなるが、あかりの推しはもう表舞台にいるつもりはないらしい。

10代の娘に「推しのいない人生なんて余生だよ....」なんて暗い顔して言われたら(何言ってんのッ)と叱りたくなる。でも、推しのいる私にはその気持ちも分かってしまう。多分私はそんなふうに素直に吐き出せない。大したことないよ、こうなるって分かってたから。アイドル推すっていうことはそういうことだから、となんでもないような顔をして、お風呂場で泣くんだと思う。

 

「推しに出会えて良かったね」と私はオタ友といつも言う。それはほんとう。推しは毎日を彩ってくれる、いやもうそんなものではなく、推しは私たちの「背骨」だ。推しが行動の指針を決め、推しにふさわしい人間になろうとする。そんな自分が滑稽でもあり、可愛くもある。「推しと同じ時代に生まれて、幸せだね。推しの幸せを祈ろう。」と仲間とメッセージをやり取りした最後はだいたい決まってそんな結論になる。

 

推しがいなくても生きてはいける。元々推しなどいなかった人生なのだから。でもなるだけ、なるだけ長く推せたらいいなと思う。もちろん、推しの幸せが第一なのが当然。推しがいなくなれば、そこには現実の自分が残るだけ、としても。

あかりの推しの真幸くんは自尊心と劣等心がないまぜになった感じのアイドルで、「誰も俺の事なんか分からないだろ」という苛立ちと、ちらちらと思わせぶりな行動で、あかりを駆り立てる。

それが不特定多数の人間に向けられたものであっても、あかりは個人的なものとして受け止める。アイドルとファンが一対一の関係であること、はなかなか当事者以外には理解されない。なんで何万人もファンがいるのに、自分と彼って思えるの?ありえないじゃない。と人は言う。でも推していると確かに、推しと自分しかこの世にいない瞬間がある。それでいて、同じ人を推すものとしてオタク同士仲良くできる。ここにも宗教みがある。アイドル自身は偶像崇拝されることについてどう思うんだろうと考えるが、自己が信仰対象であることが受け入れられない人はそもそもこのポジションに長くはいられない気がする。

 

全身全霊で推しを理解したつもりでいても、推しは去る。推しのメンバーカラーに身を包みラストライブを密録しながら、最後の最後まで推しを理解しようとするあかりの純粋さが痛々しくも眩しい。推しがいなくなったら余生だ、といってたあかりがまるで自分を弔うようにあるものを拾うところで物語は終わる。

 

 あかりのしていることに意味がないわけではない。そこまで推せたことは幸せなことでもある。でも推しはいつかいなくなる、全ては変化していく。推しだけでなく、自分をとりまく全てが。そしていつか自分だけが残る、そう考えて心底ぞっとしたのが私の本音。推しがいる人生とは幸せなのか、それとも不幸のはじまりなのか。祈りをなくした時、人はなにを支えにして生きていくのか。

それが人生の隠されたテーマなら、推しがいる生活というのは人生の凝縮みたいなものだなと思った。

 

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